なんで生きてるんだろうなワイら
※このエントリーは、
6/6にnoteに投稿したものの転載です。
こんにちは
とりあえず考えたことを吐き出すために
ちょくちょくブログを書きます。
開口一番ですが、
なんで僕らって生きてるんだろうね。
いや普通こんなことは考えない。
このエントリーは結局オチがないものになるから。
じゃあ書くなってnoteのサーバー管理してるおっちゃんから怒られそうだけど。
最近ちょっと考えてある種腑に落ちた、
コペルニクス的転回があったので忘れないように書いておきます。
まず
前提条件で初めましてのすえは、
実は生まれつき心臓が悪くて、生後間もなく心臓手術をしている。
そして70%の確率をかいくぐりこの世に存在しているということを伝えたい。
手術室の前のイスに座ってすえ父とすえ母は、
僕の手術が終わるのを十何時間も待ち続けたらしい。
無事終わった後、2人してガッツポーズをしたらしい。
別に生きたいとかそういうのは、
当時の僕自身は願ってなかったと思うけどな。
僕は大人になってそれを聞いて、
なんだか涙が出てきてしまって。
これは多少極端な例だけど
誰しもがみんな同じだと思う。
まずオギャーと生まれた瞬間から、
僕らの意思とは関係なく、
少なくとも意識のない十数年間は、
周りにいる誰もが何かしらの面倒をみてくれて初めて存在している。
つまり意思とは関係なく生かされている状況において、
なんで生きているの?という問いはちょっと変な気がする。
何かの理由があって生きているのではなく、理由はわからないけど生きている。
んじゃあせっかくならより濃い理由を作って、世間に傷跡を残して死にたいと考えることの方が自然だなと。
また話は変わるけど、
僕は今某京都に住んでいて、嵐山の方にある
『鈴虫寺』の住職がステキな話を書かせてくれた。以下住職の言葉抜粋。
「みなさん、たくさんの悩みを抱えて日本全国からこちらにいらっしゃいます」
「皆さんこのような内容です。『〇〇(有名人)のような素敵な恋人と出会えますように』『仕事の人間関係がうまく生きますように』」
「ただね皆さん目の前の幸せを感じていますか?」
「あなたがそこに存在していること、それ自体が幸せだということに気づいていますか?」
「先祖代々一度も欠けることなくバトンが繋がって、今あなたがそこに存在していること自体が奇跡で幸せなことですよ。」
「外にばかりあれしたいこれしたいと目を向けすぎていませんか?自分自身を見つめなおす時間を日々持てていますか?」
と。
ハッと思いました。
同じことだなと、どうしても
僕らは満たされない何かで
いつも胸が苦しめられて、何故生きているんだろうと考えてしまうのは、
間違えだなと。
まあだからといって状況がよくなるわけではないし、承認要求は相変わらず強いから、
そうはいえども根本的な解決にはならないけどね。
まあでもたまーにしんどい時は
結構支えになる。
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